V.S. ALWAYS 三丁目の夕日

映画館に通っては『ALWAYS 三丁目の夕日'64』のスクリーンに吸い込まれていく大量の人々を観ては苦虫を噛み潰す日々。
畜生、シリーズ物のくせして何作目かわかりにくいタイトルつけやがって。もう64本も撮ったのかよ。

最近なぜかだ俺の周りのこの映画の話題が多い。
「映画好きなんでしょ?ALWAYS観た?あれ、チョー泣けるよねー」ってテンションで。
ごめんなさい、俺、あの映画チョー苦手なんです。
その度俺なりの考えを述べてるんだけど、それがまぁぼんやりしている。
いかんせん、観たのが結構前なもんで、観終わったあと激怒のあまりディスクを割らないように苦労したことしか覚えてなくて・・・
これではせっかく映画の話題を振ってくれた相手にも作品そのものにも失礼だ!ってことで、調べました。考えました。

同監督の別作品、テーマが似てる作品、時代が似てる作品も観た。
関連する映画評論本や公開当時の映画雑誌も出来る限り集めてみた。
図書館で舞台となる時代についての資料を読んで、時代背景も調べた。
ブログやレビューサイトも一通りチェック済み。
完・全・武・装!


さぁかかってこい!ってことで本編観ました。3回ほど。

で、以下、結論。
ちなみにALWAYS好きな人が読むと不快になるおそれが多いにあるので注意。
ただ、資料とか読み込んで、仕事の時間中もずっと色々考えて出した結論。
なにかについて色々調べて考えて、結論をまとめることの楽しさを再認識できたことは大きな収穫でした。


大きく分けて3つの段落で結論を。
1,演出 〜うっせーんだよ!〜
2,ストーリーとディティール 〜それは王道じゃなくて陳腐と言う〜
3,作品テーマ 〜コイツらこそイエスタデイ・ワンスモアじゃないか!〜



1,演出 〜うっせーんだよ!〜

まずは映画としての技術面。これについては個人の感覚とか関係ないし、とりあえず明らかな部分なんで。

本作品を監督した山崎監督の演出は一言に尽きる。
「うっせーんだよ!!!!」
とにかく演出がうるさい。どこがうるさいか。

まず、音楽。
これは物理的にも精神的にもうるさい。
この監督はそれっぽいシーンでそれっぽい音楽を大音量でかければそれでいいと思っているらしい。
悲しげなシーンでは悲しい風な音楽をドジャーンって流す。
楽しげなシーンでは楽しい風な音楽をなにも考えずに流す。
イーストウッド黒沢清みたいに音楽を抑えたり全く使わなかったりして緊張感を高めてからの・・・エモーショナルの爆発!みたいな演出はしない。
これじゃあ、全く物語に入り込むことができない。
それはまるで、とりあえず調味料をかけただけの料理のようだ。
下ごしらえとか出汁とかめんどくさいから、とりあえずお湯に味噌溶かしましたって言われて茶色いお湯を出されても、俺はそれを味噌汁とは認めない。

次にカメラワーク。
山崎監督はとりあえずクレーンやレールを使わないと壮大な画やスピード感がある画は撮れないと信じているらしい。
やたらと無意味に派手なカメラワークを使う。
カメラを振り回す前にもっとやることがあるでしょうに。
よく考えて欲しい。
アイアンマンや北野武座頭市ではどこをFIXで撮っていたのか、どこでクレーンやレールを使っていたのか。
ちなみにCGの使い所も・・・どこをCGを使ってどうやって実写に繋げると効果的か、なんにも考えていないのが丸見えなのだ。
この監督にとってはカメラワークもCGもドヤ顔するためと出演者の演技力不足を補う為の道具でしかないらしい。
誤魔化してるんじゃねーよ!

最後に台詞回し。
これがとにかく最悪。
超説明的。すべてが説明的。
山崎監督はとにかくすべてを台詞で説明しないと気が済まない。
リアリティ無視で、そんなこと言うか?って台詞がただただ並ぶ。
目をつぶっていてもなにが起きてるのか全部把握できる。それくらい説明的。
完全に観客を馬鹿にしているとしか思えない。これくらい言ってやらないとお前らにはわかんないだろ?って。

例えば淳之介の父親が「三流品は持つな。これからは一流品を持て」っていって万年筆を茶川に返す。
本当にうっさい。そんなもん、万年筆を捨てるシーン入れとけばわかるっての。
この淳之介の父親がらみのシーンは本当にひどくって、とにかく全部台詞でいう。
んなもん、観てればわかるってんだよ!!って感が常にまとわりつく。

他にも駄菓子屋を見て「あらやだ、本当に小さい」って驚いたり(わざわざ自分がなにに驚いてるか説明してくれなくてもいいよ!前振りもあったしわかってるよ!)
「お守り入れておいたわよ」って伏線をわざわざナレーションで説明してくれたり(うっせーんだよ!わかってるよ!!その伏線、ほんの少し前じゃねぇかよ!!てかこんなもん伏線って認めねーぞ!!!)

とにかく本当にすべて台詞で説明される。
あのさ、映画の意味ってわかってる?映像なんだよ?
ちょっとした表情やふとした動作で感情を表現することができるのが映画の素晴らしいところじゃないの?そこが映画だからこそできる表現なんじゃないの?
それを全部言葉で説明されても・・・


以上の3点がもっとも顕著になるのは茶川と淳之介の別れのシーン。
延々と冗長な別れへと至るシーンを重ねた挙げ句、泣いてる子供の映像の上にその子供が書いた手紙の文面を写して、その上その文を読ませる。そして流れる大音量の悲しげな音楽・・・
もう、阿呆じゃねーのか・・・説明的にもほどがある。冗長にもほどがある。
うるさい。本当にうるさい。完全に馬鹿にしてやがる。
1ミリも感動なんてできやしない。激怒するしかない。

これらの超過剰説明演出のせいでまるで映画観てる隣で事細かに解説されてるような感覚に陥る。
「はい!ここ、笑うところね!笑って!はい笑って!・・・はい、ストップ!笑うとこ終わり!次来るよ〜次。次は感動する場所だよー?泣く準備してー?ちょっと待って・・・はい!ここ!泣いて!泣いて!じゃんじゃん泣いて」
・・・もう、うっせーんだよ!!




2,ストーリーとディティール 〜それは王道じゃなくて陳腐と言う〜

よくレビューで「これは良くある王道ストーリーだから意外性はないんだけど、それが逆に良くて〜」みたいなの見るけど・・・
これは王道じゃなくて陳腐なだけだと言いたい。

まず細かいディテールが全然練られてない。
芥川賞を目指す作家の名前が茶川竜之介って・・・そんなもん、審査通るわけねーだろーがよ!!馬鹿にしてんのか!!
それに、貧乏なはずの鈴木オートがあっという間に三種の神器の家電を揃えちゃったり。いや、金あるじゃん。それじゃあ最後の切符とか全然感動的じゃないんですが・・・
自転車と自動車を間違えて採用ってのも・・・どっちにしろあの時代の自動車修理業が技術員として女の子雇うか・・・?
あとさ、昭和30年代をリアルに再現してるっていうけど・・・本当にそうか?
当時の写真とか見る限り、もっと町並みは汚くないかなぁ・・・子供達の服装もなんだか小綺麗過ぎるし。
てか昭和30年代って50〜60年前だよ?懐かしいとかリアルだとか・・・誰が言ってるの?60代以降のジジババ様たちじゃなきゃ言えない台詞だろ?
つまりはこの映画内にあるのはあくまで懐かしい風だけなのだ。
これについては次項で詳しく。

ストーリーもなんだかなぁ。
色々言いたいことあるけど、とにかく俺がいやなのは登場人物が誰一人として頑張ったり努力したりしないこと。
何気ない日常的なものを撮りたかったかなんだか知らないけど、なにも起きなすぎじゃん。俺らの日常の方がよっぽどドラマチックだよ。
六子が自動車について勉強する描写もなければ茶川がいい作品を書こうと真剣に苦悩する描写もない。
ロシア文学も読んだことないくせに」って台詞があるけど・・・あのさ、君が本当にロシア文学ちゃんと読んでたら彼らがどれだけの苦悩の挙げ句に執筆してるか理解してるんじゃねーの?それもわかってないなら純文学なんて書く資格ないでしょう。

最悪なのは茶川の盗作問題。なんかさ、いい話風に撮ってるけど・・・その行為は最低だからな!
なんらかの罰を受けるべきじゃないのか!?せめて物語内でなんらかの決着をつけるべきじゃないのか?いいのか?それで。

物語内には敵も問題も全く存在しない。
あったとしても勘違いだったり、超簡単にクリアできてしまったり。
乗り越えるべき障害がなきゃ、そりゃ努力もしないか。
・・・本当に人生ってそんなんか?



3,作品テーマ 〜コイツらこそイエスタデイ・ワンスモアじゃないか!〜
この作品の舞台は昭和33年だ。
終戦から10年ちょっとしか経っていない。
高度成長期真っ直中。日本の強欲の時代だ。
そんな時代をリアルに再現したというが・・・これがリアルなわけないだろう!そんなこと、その時代に生きてない俺にだってわかる。
1950年代といえば、わかりやすく言えば『はだしのゲン』の後半の世界だ。
・・・それがあんなに綺麗な町並みであってたまるかってんだ!!

図書館やなんかで当時の資料を見て欲しい。
園子温が監督したんじゃねーの?って猟奇的な殺人事件が山ほど起きてる。しかも最近流行の犯罪の低年齢化をあざ笑うように犯人は子供といって良いほど若い。
さらに高度成長に伴って日本がどんどん汚れていくのもこの時代だ。
日本四大公害水俣病はちょうとALWAYSの頃に起きてる。
出稼ぎに田舎から上京してきた人達だって、鈴木オートのような心優しい雇い主に恵まれることなんて稀で、過酷な労働や酷いイジメを受けて体を崩す人が続出していた。
人と人のと繋がりがどうとか温かみがどうとか言うけど、この頃はまだ隣組の風潮も残っていてプライバシーなんてものはなく世間体をとにかく気にしなければ生きていけなかったなんて文献もある。
欧米に追いつけ追い越せで無理矢理な成長をした結果の歪みが見え始めた時代といえるだろう。

では、ALWAYSではこれらの負の部分についてどうやって描き、どのように解答を出しているか。
・・・答えはスルーだ。完全スルー。
一切描いていない。完全に逃げてる。

ここで描かれている昭和は思い出博物館でしかない。
汚いものや敵や問題はすべて取り除かれた漂白された世界。
とにかく徹底して汚いものは映さない。
どれだけ徹底してるかと言えば、お腹を壊した六子が吐くシーンがあるんだけど、顔は画面からフレームアウトする。
ふっざけてんじゃねーよ!!美少女のゲロ映さないでどうすんだよ!!映画なんて美少女のゲロ見る為に観に行ってるにキマってんだろ!!その点『ピラニア3D』は偉かったよな!美少女のゲロが3Dで飛び出してくるんだもんな!

論点がズレました。

漂白された世界。それはテーマパークのようだ。
・・・ん?昭和のテーマパーク?
これはまさに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』に出てきた秘密結社イエスタデイ・ワンスモアそのものじゃないか!

現在を、未来を否定し、昔自分が憧れた虚構の未来を盲信する。
それゆえ過去を見つめてるだけで、そこから先に勧めない。
つまり、この映画は「昔は良かったねぇ。まったく最近の若いのは・・・」っていうおっさんのぼやきでしかないのだ。

本当に腹立たしい!!
ふっざけてるんじゃねーぞ!!
今が昔に劣ってるで誰が決めた!!
俺は楽しい!!今が超絶楽しい!!勝手に決めつけてるんじゃねーぞ!!!過去を美化してるんじゃねーぞ!!!
そもそも現代を作ったのはテメーら大人じゃねーかよ!!自分達で作っておいて勝手にダメだって決めつけてるんじゃねーよ!!!!
(以下略)

そんな腐りきった根性がキャッチフレーズにも如実に表れてます。
「携帯もテレビもパソコンもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう。」
ばっかじゃねーの。そんなこともわかんねーの?
それは携帯もテレビもパソコンもなかったからだよ。そういう文化がなかったからだよ、ばーか。
時代が違うのにそんなもの比べるだなんてナンセンスにもほどがある。
ことほどさように、ほとばしってくる「あの頃は良かった」的な懐古趣味には虫唾が走る。気色悪い。気持ち悪い。



よくよく考えて欲しい。
オトナ帝国で野原一家がなにを主張していたか。

確かに過去は良かったかもしれない。でも辛いことだらけの現在だって十分幸せだ。そして、もしかしたら未来はもっと楽しくてもっと幸せかもしれない!
しんちゃんはそうやってイエスタデイ・ワンスモアを必死で止めてくれたじゃないか。
ALWAYSにハマってる人達はオトナ帝国の前半で懐かしさに囚われてしまったヒロシやミサエと同じなんだぜ?

よく考えて欲しい。
なぜ、『オトナ帝国』でしんちゃんが必死で階段を駆け昇ったのか。
なぜ、『バトル・ロワイヤル』で川田はキタノを殺したのか。
なぜ、『卒業』でベンジャミンはエレーンを攫ったのか。
なぜ、『イージー・ライダー』でビリーとワイアットはバイクを飛ばしていたのか。

それは未来を掴みとるためだ。
それは大人達への鋭いカウンターパンチだ。
これらの映画には既存の体制をぶち壊し、もっと素晴らしいなにかを作り上げてくれという大人達から次の世代への前向きなメッセージが込められている。

それなのに未来も現在も否定して、漂白された過去だけを見ている『ALWAYS 三丁目の夕日』という作品を俺はどうしても好きになれない。


『オトナ帝国』の冒頭、20世博というテーマパークにハマる大人達を見て、風間君がつぶやく。
「懐かしいってそんなにいいものなのかな」